一より習ひ

「稽古とは一より習い十を知り、
 十よりかえる元のその一」なのだそう。
 和の世界をマイペースで巡る
 植田伊津子の徒然記です。

スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -
<< 差し込み式の三河衿芯 | 古渡り更紗展・五島美術館 >>

濃茶と薄茶

お茶といえば、一般の方ならペットボトルのお茶を思い浮かべる人が多いだろうが、少し茶の湯を知っている人なら、濃茶と薄茶の2種類のお茶があるのを知っている。
さて、今日は濃茶と薄茶の話。

茶事という「会」では、懐石をいただいたのちに、濃茶に続いて薄茶を喫する。
濃茶は、茶杓山盛り3杓をひとり分として、湯を少なめに入れ、茶筅で茶の粉をかき混ぜるようにして、ゆるめのペースト状に練る。人数分のお茶を入れて練ったひとつの茶碗を、客人が「回し飲み」するところに特徴がある。

薄茶は、茶杓1杓半ほどをひとり分として、湯を濃茶よりは多めに注いで、シャカシャカと茶筅を早めに動かし、茶の粉を攪拌させる。裏千家の場合は、表面全体が細かな泡に包まれるのが好みだが、他流派ではあまり泡点てず「半月」のかたちに残すようにして点てるとも聞く。
薄茶は各服点(かくふくだて)といって、ひとり1碗ずつ出すのが約束で、濃茶のように回し飲みはしない。

では、なぜ濃茶では、ひとつの茶碗を皆が回し飲みするのだろう。濃茶をひとりずつ点てて飲んでいたのでは時間がかかってしようがない。だから一度点てたお茶を回して飲んでもらうことによって時間を省略するのだ、という説が有力である。

ただ日本人の根本の思想に「一味同心」という考え方もある。「同じ釜の飯を食う」という言葉に見られるように、同じ食物を共同して飲食するということが、人間同士を親しくさせ、縁を結ばせる面もあるのだと、『昔の茶の湯  今の茶の湯』(淡交社刊)という本で著者の熊倉功夫さんが説いている。
ひとつの味わいをもって、心を同じくする。それがその席に参じた人たちの気持ちを固めるというのである。おそらくこれが、茶を回し飲みする行為の背景にあるのだろうとの解義は興味深い。

濃茶を回し飲みするようになったのは利休が考えたことだと『茶湯古事談(ちゃのゆこじだん)』という昔の書物に書いてあるそうだ。当時は、濃茶を「吸茶(すいちゃ)」と呼んでいたらしい。

濃茶を知っている人なら、なるほど「うまい言い方だ」と納得がいくだろう。本当に、「飲む」ほどのゆるさはなく、「吸う」のである。濃度はポタージュスープぐらいといえば、知らない方でも想像がつくだろうか。

濃茶は茶の量も多めで、濃度もあるため、茶の味が濃密である。上手に練ってあれば、茶の甘味が引き出されていて、官能的な味覚でもあるけれど、慣れないとむずかしいところもある。「私は濃茶が苦手です」という人もめずらしくはない。
反対に薄茶は、一般的な粉茶の味でサラリとしているため、初心者でもおいしく飲みやすい。

ところで、私は今日、お茶のお稽古に行って「続き薄」という点前をおこなった。
続き薄は、濃茶と薄茶をひと続きにおこなう長めの点前である。
本来の茶事ならば、濃茶のあとに席をあらためて薄茶を出すものだが、たとえば夜におこなう夜咄(よばなし)という趣向や、朝早く集まっておこなう朝茶事では、おわりの時間の関係で「続き薄」をするのが決まりだ。

「続き薄」の点前を練習をするときに、これまではいつもどおりの茶の点て方をしていたのだけれど、今日はふと、「それじゃお客さまは『重く』感じるだろうな」という思いがよぎった。

ふつうなら、ドロリとした濃茶を飲んだあとにインターバルの時間があって、薄茶の点前があたらしくはじまるのである。でも「続き薄」という点前は、いわゆる休憩時間を持たない。
だとしたら、濃茶を通常どおりに出し、薄茶もいつもの茶の分量で点てたら、少々もたれるんじゃないかと感じたのである。

そこで、今日は薄茶を心持ち少なめにして、小服仕立てにしてみた。
それが正解なのかどうかはわからないけれど、相手の身を考えたら、自然に気遣う気持ちにさせられたのである。
今日のお客さま役をしてくれた相弟子たちは、どういうふうに感じたのだろう。



JUGEMテーマ:茶道



ふるまい | - | -

スポンサーサイト

- | - | -