一より習ひ

「稽古とは一より習い十を知り、
 十よりかえる元のその一」なのだそう。
 和の世界をマイペースで巡る
 植田伊津子の徒然記です。

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正座のしびれ

私の場合、正座はさほど苦にならず、原則しびれないほうだと思うが例外がある。

しびれるときは座布団に乗っているとき。よく落語や邦楽の会が小座敷で開かれるけれど、「ふかふか」や「せんべい」などにかかわらず、畳(もしくは板の間)にじかに座らないとしびれて仕方がない。
ヨソ様のお宅にうかがったときは、「どうぞ、座布団をお当てになって」と勧められるけれど、遠慮ではなく本当にしびれるのがイヤなので「いえ、このままで……」とモジモジしながらご辞退申し上げるのである。

なぜなのかはわからないけれど、座布団に座ったら15分ももたない。いつも茶道の場面で畳にじかに座っているので、その足の感覚に慣れているからだろうと思う。それとも、はたして私だけに起こっている珍事なのか?
(茶事では、後半の後炭以後に小座布団が出されることがあるが、通常のお稽古では座布団を使わない)

他に必ずしびれるのは、きものを着ていないときである。
洋服の、とくにピタッとしたパンツスタイルが最悪で、100パーセントといってよい確率で苦しむことになる。タイトスカートも同様。

フレアスカートなら、周りに悟られないようにしながら
体重のかけ方を変えたりして時をしのぐこともできるが、タイトスカートは膝同士がくっつきすぎてしまうのがよくないと思っている。
パンツスタイルでの正座も、血の巡りが悪くなるため、しびれを起こすのだろう。男性が仕事帰りなどにスラックスでお茶のお稽古をされていたりするが、足がしびれて当然だ。

きものを着るとしびれにくいのは、正座のときに足とお尻の間の布が緩衝材の役割をしてくれているからではないかと思う。
かなり昔から「握りこぶしひとつ分、ひざの間を開けて座るように」と言い伝えられているのは、正座スタイルの安定感とともに、しびれをも予防するからではないだろうか。

なんでこんな文章を書いているかですって?
何の気なしに、繕い物を座布団に乗ってしていたら、すぐに足の感覚を失って、ヒーヒーとなってしまったからである。
座布団での正座が鬼門なのを忘れていたなんて、油断大敵であった。

私が座布団を当てるのは、足ではなくて頭。昼寝の枕に、これ以上のものは見あたらない。


今日はなんという暖かさだったのだろう。近所の早咲きの桜がこっそりとつぼみをゆるめているのを発見。今週の茶道のお稽古の釣釜が待ち遠しい。


ふるまい | - | -

茶道の立ち居

この前のお稽古のとき、道具を持って立ち上がったときに「よろっ」と不安定になった。

このところ必要最小限しか体を動かさず、筋肉が弱ったのが原因だろう。お正月からの小太り状態も完全には解消されていない。
雑誌
『CREA』のダイエット特集号を買ったけれど、もう少し暖かくなったら実行しようと眺めていただけだった。

お茶は、立ったり座ったりするときに、足の筋肉を使う。筋肉が弱いと立ち居に支障が出るのだ。
お茶の立ち居で大切なのは、背筋がぶれないことだと私は教えられてきた。体を前後に揺らすことなく、まっすぐ立ったり座ったりしなくてはいけないのである。

まず、両足を同時に爪立てて、かかとの上にしっかりお尻を乗せる。乗せたときに背筋をまっすぐにする。
それからどちらかの足を半歩ほど前に出して、片膝を立てる。立てるとはいうものの、完全にではない。「浮かす」といったほうがニュアンスに近い。
ふつうの本勝手の場合は右足、逆勝手の場合は左足を立てるのが約束だ。

それから立ち上がる。立ち上がるときも、背筋がまっすぐかどうかを初心者は意識したほうがよい。ここでぶれる人が多い。

「いつも立ち上がるときによろけます」という方。もしかしてあなたの身長は高いのではないだろうか?
私がお稽古場で観察していると、最近の若い方は背が高くて、膝下が長く、皆さんスタイルがよい。けれど、そういう人に限ってよろけがちなのである。

教則本には書いてないが、そういう人は片膝を前に出すときの「半歩」を、ほんの少しだけ大きくされるとよいのではないか。「心持ち」である。そうでないと、きものの前が開きすぎて乱れてしまう。
背の高い方は、おそらく小さい方より立ち上がるときの負担が大きいだろうから、足場を安定させる工夫をするほうがよいのではと思われるのだ。

もしくは、太ももの筋肉を多少鍛えておきたい。筋肉さえあれば、ふつうどおりの半歩でも差し支えなくまっすぐ立ち上がれるはずである。

かかとにお尻を乗せるときも注意が必要だ。
正座から両足を爪立てるときに、かかと同士をくっつけてから立ち上がるようにしたい。
そうでないと、きものの奥が見えてしまうのである。すねの裏や、きもののストッキングをはじめ、ヘタをすると長ズロースまであらわにする……(ズロース以外の表現がわからないが、とにかく肌着である)。

無防備にかかとを開いたまま立つ人を見ると、「見るべきではない」と思っていても、想像以上に目立つから、どうしても視線が行ってしまうのだ。
洋服の稽古のときから、意識してかかと同士をつけるクセをつけないと、きものを着たときだけ急には直せない。




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ふるまい | - | -

濃茶と薄茶

お茶といえば、一般の方ならペットボトルのお茶を思い浮かべる人が多いだろうが、少し茶の湯を知っている人なら、濃茶と薄茶の2種類のお茶があるのを知っている。
さて、今日は濃茶と薄茶の話。

茶事という「会」では、懐石をいただいたのちに、濃茶に続いて薄茶を喫する。
濃茶は、茶杓山盛り3杓をひとり分として、湯を少なめに入れ、茶筅で茶の粉をかき混ぜるようにして、ゆるめのペースト状に練る。人数分のお茶を入れて練ったひとつの茶碗を、客人が「回し飲み」するところに特徴がある。

薄茶は、茶杓1杓半ほどをひとり分として、湯を濃茶よりは多めに注いで、シャカシャカと茶筅を早めに動かし、茶の粉を攪拌させる。裏千家の場合は、表面全体が細かな泡に包まれるのが好みだが、他流派ではあまり泡点てず「半月」のかたちに残すようにして点てるとも聞く。
薄茶は各服点(かくふくだて)といって、ひとり1碗ずつ出すのが約束で、濃茶のように回し飲みはしない。

では、なぜ濃茶では、ひとつの茶碗を皆が回し飲みするのだろう。濃茶をひとりずつ点てて飲んでいたのでは時間がかかってしようがない。だから一度点てたお茶を回して飲んでもらうことによって時間を省略するのだ、という説が有力である。

ただ日本人の根本の思想に「一味同心」という考え方もある。「同じ釜の飯を食う」という言葉に見られるように、同じ食物を共同して飲食するということが、人間同士を親しくさせ、縁を結ばせる面もあるのだと、『昔の茶の湯  今の茶の湯』(淡交社刊)という本で著者の熊倉功夫さんが説いている。
ひとつの味わいをもって、心を同じくする。それがその席に参じた人たちの気持ちを固めるというのである。おそらくこれが、茶を回し飲みする行為の背景にあるのだろうとの解義は興味深い。

濃茶を回し飲みするようになったのは利休が考えたことだと『茶湯古事談(ちゃのゆこじだん)』という昔の書物に書いてあるそうだ。当時は、濃茶を「吸茶(すいちゃ)」と呼んでいたらしい。

濃茶を知っている人なら、なるほど「うまい言い方だ」と納得がいくだろう。本当に、「飲む」ほどのゆるさはなく、「吸う」のである。濃度はポタージュスープぐらいといえば、知らない方でも想像がつくだろうか。

濃茶は茶の量も多めで、濃度もあるため、茶の味が濃密である。上手に練ってあれば、茶の甘味が引き出されていて、官能的な味覚でもあるけれど、慣れないとむずかしいところもある。「私は濃茶が苦手です」という人もめずらしくはない。
反対に薄茶は、一般的な粉茶の味でサラリとしているため、初心者でもおいしく飲みやすい。

ところで、私は今日、お茶のお稽古に行って「続き薄」という点前をおこなった。
続き薄は、濃茶と薄茶をひと続きにおこなう長めの点前である。
本来の茶事ならば、濃茶のあとに席をあらためて薄茶を出すものだが、たとえば夜におこなう夜咄(よばなし)という趣向や、朝早く集まっておこなう朝茶事では、おわりの時間の関係で「続き薄」をするのが決まりだ。

「続き薄」の点前を練習をするときに、これまではいつもどおりの茶の点て方をしていたのだけれど、今日はふと、「それじゃお客さまは『重く』感じるだろうな」という思いがよぎった。

ふつうなら、ドロリとした濃茶を飲んだあとにインターバルの時間があって、薄茶の点前があたらしくはじまるのである。でも「続き薄」という点前は、いわゆる休憩時間を持たない。
だとしたら、濃茶を通常どおりに出し、薄茶もいつもの茶の分量で点てたら、少々もたれるんじゃないかと感じたのである。

そこで、今日は薄茶を心持ち少なめにして、小服仕立てにしてみた。
それが正解なのかどうかはわからないけれど、相手の身を考えたら、自然に気遣う気持ちにさせられたのである。
今日のお客さま役をしてくれた相弟子たちは、どういうふうに感じたのだろう。



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縄田さんの茶入の仕覆

久しぶりに散髪に行った。一年に3度ほどしかカットに行かないため、担当のお兄さんとは久しぶりである。このところ週のうち半分ぐらいはきものなので、和髪にまとめやすい長さにしてもらう。
和装にとってヘアは鬼門だ。街中にきもの姿の人がいたら自然とそちらに目が行くが、「感じのいい髪だな」と思える人は少ない。
あるとき、必要があって美容院でまとめてもらったら、借り物の頭になったようで、「こりゃあかん」とうなだれた。旅館の女将さん風でもなく、美容院で決めました風でもなく……というニュアンスがうまく伝わらない。
自分でも、素人らしさを失わない自然な形にまとめたいと、いつも思っているがむずかしい。

さて、グラフィクデザイナーの縄田智子さんが茶入の仕覆の写真を送ってくださった。


縄田さんは、大学時代の同級生だった若山嘉代子さんと一緒にレスパースというデザイン事務所をされている。
こちらの事務所は実用書系のエディトリアルデザインが得意で、料理やお菓子、手芸物などで「素敵だなー」と思う本は、ここが手がけていることが多い。
大人気の手芸家・下田直子さんの本などは、もちろんのこと作品もすばらしいと思うが、本のレイアウトが下田ワールドをより豊かに表していると思う。
レスパースデザインの本は、かわいらしさと上品さがほどよくあって、出版業界人にファンが多いのは周知である。

縄田さんは、数年前からお茶のお稽古もはじめた。「『宗偏風(※[へん]の字は人偏ではなく行人偏)』という本のデザインをしたら、宗偏流のお家元に初釜に招かれるようになって、お茶のたしなみって必要かもしれないと思って始めたのよ」と、その頃言っていらした。
多忙で、なかなかお稽古に行けないというが、もう何年も続いている。
素浄瑠璃を一緒に聴きに行ったときは、とても感じのよい織物を着こなしていらして、ゆっくり和の文化に親しんでいる姿が印象的だった。

3月に内輪のお茶亊をされることになり、備前の茶入を合わせて仕覆をつくったという。「おかげさまで、植田さんと一緒につくった『茶の湯手づくりBOOK 茶入の仕覆』(淡交社刊)の本が役に立ちました」。

数年前に手がけた茶の湯手づくりBOOKシリーズのデザインは、レスパースにお願いした。本をつくるということは、編集者、デザイナーともかなり内容を読み込まないといけず、実用書なら、ときに読者目線で料理や物づくりの工程を自分でやってみることもある。

「いろいろと難はありますが、何とか形になりホッとしてます。恥ずかしながら写真を添付しますので笑って下さい。細かいところをもっと知りたいと思いつつ、写真を観察しながらの格闘でした。青梅綿(おうめわた。仕覆内側のクッションにする)を取り寄せて、稲垣政商店(仕覆の裂地などを扱っている和の袋物用品のお店)にも行ったんですよ」。

すごいと感激して、本人にブログアップの許しを得た。
紐と裂の色の組み合わせも洒落ているし、なにより忙しい合間を縫って仕覆にチャレンジする心意気に頭が下がる。
茶の湯はかならずしも高価なものばかりが尊ばれる対象ではない。茶器に自作の仕覆を添えてもてなそうとする姿に、心打たれない客人はいない。

それにしても、縄田さま、だんだんこっちの世界にのめり込んでおられますね? 


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マンションの茶室

午後から西麻布の知り合いを訪ねる。
ある時はエディトリアルデザイナー、またある時は商品のプロデューサー、そしてお茶人さんでもある林道子さんが「植田さん、長い会社勤めご苦労様でした。一服、お茶でも飲みにいらっしゃいませんか」と誘ってくださった。
やさしい色をした桃の花の花束を携えていった。


林さんは、今から数年前、思い立って中古のマンションを改装してお茶室をつくられた。けして広いとは言えないが、本式の三畳小間である。お若い、と私が言えば失礼になるかもしれないが、私より少しだけ上の年齢で、これだけのものを誰の援助もなく自力でつくられたことに、心の内にお茶をどうしても必要とする、林さんのまじめな気持ちが知られる。


ご自身の稽古をはじめとして、菓子づくりやお茶のお稽古をつけてほしいという人たちが日々通っているお茶室は、うかがうたびに落ち着きが備ってきているように思う。新しい木の匂いに包まれたあの頃もよかったが、茶室は日常的に使われ、磨かれてこそ、生き生きとした表情を見せる。

近況をおしゃべりしたのち、お茶室で薄茶を一服いただく。軸は「無事」の禅語。「これからの植田さんの行く末が幸せであるようにと思って掛けたわ」と林さん。
ありがとう。痛み入ります。



菓子は手づくりのきんとんだった。いつも手ずからのお菓子で客人をもてなされるのだ。お茶のことや仕事の話など、3時間もゆっくりさせてもらった。帰り際に「また近くにいらしたら寄ってくださいね。いつでも釜はかけているから」とさりげなく言われた。
そうね。今度は一緒にお茶事をしましょう。

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