一より習ひ

「稽古とは一より習い十を知り、
 十よりかえる元のその一」なのだそう。
 和の世界をマイペースで巡る
 植田伊津子の徒然記です。

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手を清める

茶道の点前の基本は、「清めて」使うことだろう。
抹茶を入れるうつわ(棗[なつめ]や茶入[ちゃいれ])、茶をすくう竹の匙(茶杓[ちゃしゃく])、茶碗など、いずれも持ち出す前にきれいにしているにもかかわらず、お客さまの前でもう一度器物を拭く所作が、どの点前にも組み込まれている。
清浄を尊ぶ茶の湯の特性のひとつである。

今日は、手を清める仕種について書こう。

今日は、奥伝の「行之行台子(ぎょうのぎょうだいす)」の免状をはじめて取得した人たちのために、若先生が見本点前をされる日。はじめての方々に便乗して、私もデモンストレーションを見せてもらうために、午前中からうかがう。
先生の点前を見る機会は滅多にない。裏千家学園で学ばれた若先生の点前は、さすがにうつくしい。流れに澱みがなく、おごそかである。他者から見られている、という意識を持たれていないように感じる。重い点前であるのに淡々としているのだ。

点前が終わったときに、先生が「揉み手」について説明された。
この仕種は、唐物(からもの)という中国から舶来したブランド物の大切な茶入に触れる前におこなう所作である。点前をする人も、拝見をする客人も、器物に触れる前に揉み手をするのが決まりである。
唐物茶入を盆に載せた点前「盆点(ぼんだて)」以上から揉み手で器物を扱うのは、それだけ価値の高い道具を使うことを意味している。
実際には、おへそぐらいの位置で、2度ゆっくりと手のひらを揉み合わせてから、茶入に触れる。

一般的に揉み手といえば、依頼や謝罪、弁解をするときに、左右の手のひらをすり合わせる手つきを指すだろう。芝居などで商人らしさを表現するためにスリスリしているのを見かけるが、茶の湯のそれはまったく別物である。

茶の湯の点前における揉み手は、その昔、禅僧が朝露を手のひらに受けて手を清めた仕種に由来するという。

若先生が「私は右の手のひらに露を受けていると想像して、それを左手に移し替えるような気持ちで揉み手をします」とおっしゃった。

山中の草木にわずかに残る露をそっと手のひらに受ける。それは貴重な清水だ。露をこぼさないように、そういう気持ちで、手を揉み合わせるのだと。

お稽古の帰り道、このエピソードが『南方録(なんぽうろく)』に記されていたような気がして、夕食後『南方録を読む』熊倉功夫著(淡交社刊)を開いてみる。「滅後」の項目にやはり書かれていた。
少し長くなるが、本書の現代語訳を引用して紹介する。


茶をたてるときに、茶入などとる場合、手をもみ合わせてとることがある。これを柴手水(しばちょうず)という。笑嶺和尚が、あるとき利休にいわれるに、この手をもみ合わせるのは茶巾など扱った手が湿っていて、手を乾かすためにするのだと茶人はいわれるが、本当はそうではあるまい。真言宗などでもっぱらすることだ。
山中の修行などのとき、たびたび手水して手を清めるのに、水がない山頂などでは柴の葉を手にとってもみ合わせ、手を清める。これを柴手水という。
茶入などの大切な道具を扱う前に、手を清める心で「もみ手」をするのであろう、といわれた。


熊倉先生は続く解説文で、「揉み手は手の湿りをとるためとか、手のこわばりを揉みほぐして粗相のないように心がけるため、と説明されるが、まさに笑嶺和尚のいうとおり、清めの手水の模倣であるにまちがいない」と言及する。

茶道を学んでいくと、「かたち」のところどころに、思いがけない深いエピソードが潜んでいるのを知ることがある。もちろんのこと、すべての所作に説明がつくわけではないけれど、こうした「気づき」がこの道の示唆となし得ることが、私には喜びなのである。

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※『南方録』とは、南坊宗啓(なんぼうそうけい)というお坊さんが、千利休の教えを聞き書きしたとされている江戸時代の伝書。立花実山という人が利休死後100年ほどしてから発見したと言われている。

※上記の『南方録を読む』熊倉功夫著(淡交社刊)は、原本7巻の中から、今に通じる茶の湯の大切な教えを抄出して1冊にまとめたもの。台子や棚など飾り方の具体的項目は少し省略されていたりするが、原本のコアなところは大方押さえている。
『すらすら読める南方録』筒井紘一著(講談社刊)も読みやすいが、こちらは、南方録の最初の「覚書」しか収載されていない。
『南方録を読む』のほうは、その他の項目「会」「棚」「書院」など7項目すべてを網羅していて、読み物としてたいへんおもしろくできている。
熊倉先生の文章がじつに明解で、茶の湯に対する敬意がかいま見えるのも好ましい。初心者をはじめ、道の半ばにいる中堅どころ、ベテランの先生たち、どの世代が読んでも得心するなにかがあるだろう。
構成は、原文に現代語訳、加えて語釈と解説が続くため、やさしく理解できるていねいなつくり。(底本は『茶道古典全集』第4巻所載の円覚寺本)
もう1冊、『南方録』久松真一著(淡交社刊)にも触れよう。これは、いまや古典として知られている定本。熊倉本は、熊倉流の味付けで南方録を読み解くが、久松本は、円覚寺本をそのまま新字に改めたものだ(校訂解題はされている)。必要最小限の解説しかなく、シンプルな構成で、若干現代人には読みにくいところもあるけれど、原著をダイレクトに賞味できる面がある。
私自身は、久松本と熊倉本を併用して読んでいる。


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